人は怒りを「捏造」するという話

今日は「怒り」について考えていきたいと思います。

怒りほど非生産的なものはないですよね。

先日会社の先輩から「壁打ち理論」というのを教えていただきまして、

コミュニケーションにおいては

「自分が放ったものと同じ感情が相手からも返ってくる」(怒りを放てば相手も怒りで応戦してくる)

という理論なのですが、これは非常に的を得ていて重要な考え方だなぁと感じた次第です。

「人生の悩みの全ては人間関係の悩みである」とも言われているので(これについてはまた別の記事で書きます)

この「怒り」とやらを、もっといえば「感情」をうまくコントロールできれば、

人生は全てうまくいくのではないかなと思ったので今回はそんな感じで書いていきます。

僕自身も最近仕事中についカッとなってしまったことがあったので

「怒り」ってどこから来るんだろう。ってところから考えていければなぁと。

今回も例によって「こんな考え方の人もいるんだなぁ」くらいで読んでもらえたら嬉しいです。

とはいえ僕的には割と的を得ているのではないかと思っているので

指導する立場で「怒るべきか諭すべきか悩んでいる」みたいな方には是非とも読んでいただきたいです。

「人は目的のために怒っている」

いきなりなにを言っているんだと。

怒りは原因あってこそだろと言いたい気持ちはわかります。

しかしこの前提に立つことは今回のテーマの核心であり、非常に重要なのでじっくり読み進めて欲しいです。

次の例で考えてみましょう。

あなたがお気に入りの服を着てレストランに行ったとする。

食事を楽しんでいると通りかかった店員さんが手を滑らせてあなたの服にワインをこぼしてしまった。

普段は温厚なあなたですがこのときばかりはついカッとなり「なにやってんだ!」と店員さんを怒鳴りつけてしまった。

一見、原因ありきの不可抗力な怒りに見えますよね。

普段は温厚だがお気に入りの服を汚されたことで反射的に考えるより先に声が出てしまった。

抗うことができない怒りの感情、どうすることもできない不可抗力でしたよ。と。

でもこう考えてみるとどうでしょう。

仮にあなたがそのときたまたま刃物を持っていたとしてカッとなったはずみに店員さんを刺し殺してしまったとします。

その場合にも「抗うことのできない怒りの感情、どうすることもできない不可抗力でした」と弁明できるでしょうか。

きっとできませんよね。

これは極論のように思いますが、怒りが不可抗力であるという理屈を深掘りしていくと、

怒りに駆られた行動の全ては「怒り」のせいであり、自分の責任ではなくなるということになってしまうと思います。

そこでこの怒りを説明するために「人は目的のために怒っている」という理論に行き着くわけです。

つまり「怒りに駆られて怒鳴りつけた」のではなく、「大声を出すために怒った」ということ。

なぜ大声を出したかったかというと「ミスをした店員さんを屈服させ、自分のいうことを聞かせるため」であり、その手段として怒りの感情を使ったというわけです。

わざわざ大声を上げずに言葉で説明すれば店員さんはしかるべき措置をとったかもしれないのに、

その説明の手間を面倒に感じ、より安直な手段で屈服させようとした。その道具として怒りの感情を使ったということになります。

怒りは出し入れ可能な「道具」である

言いたいことはわかったけどなんか納得できない!という声が聞こえてきそうなのでもう一つ例をあげます。

例えばこんな経験ありませんか?

小学生の頃、親に怒られていたら家の電話が鳴る。

「もしもし?」と話し始め、1秒前まで怒っていたのが嘘のような丁寧な口調と声色で話す親。

そのまま数分話して電話を切る。

と同時にまた血相を変えて自分に怒りを向けてくる。

よくある話ですよね。

これはまさに人が怒りを捏造している証左です。

要するに「怒り」とは出し入れが可能な道具であり、

電話がなれば瞬時に引っ込められるし、電話が終われば再度持ち出すこともできる。

この場合の親は怒りを抑えきれずに怒っているのではなく、

子を威圧し、自分の主張を通すという目的のために怒っているのです。

(注:あくまで例であり、僕にはこんな経験はありません。僕の両親はとても温厚です)

どうでしょう。

人が怒るのは原因からではなく目的からというのがなんとなくわかってもらえたのではないでしょうか。

怒りが原因ありきの不可抗力なものではなく、目的ありきの手段としてものだと気づけた今。

もう怒る必要なんてないと思いませんか?

少しきつい言い方をすると、怒るということは「怠慢」であり非常に勿体ない行為だと考えています。

丁寧に伝えればわかるはずなのにそれがめんどくさいがために怒りという感情を使う。

冒頭にも書いた通りコミュニケーションは壁打ち理論で成り立っていますから、

自分が相手に向けた感情は必ず同じように返ってきます。

そもそも怒りというのは自分と相手との考え方のズレからくるものだと思っています。

「普通」そんなことしないよね。とか、こんなの「常識的に」考えたらとわかるよね。とか。

でもよく考えると普通とか常識って人によって違って当たり前じゃないですか?

みんな全く違う環境で育ち、ここまで成長してきているわけです。

どこかの偉人が「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」って言っているのを

目にしたことがありますが本当にその通りだと思います。

何が言いたいかというと、怒ったり不満をぶつける前に

「もっと自分にできることはなかったのかな」とか「こういう伝え方をすべきだったんじゃないのかな」など

自分自身に目を向ける習慣を身につけて欲しいなということです。

そして怒っているときは例外なく立場を明確にして自分の主張を押し通したいときだと気づいて欲しいです。

かくいう僕自身も怒ったことでこの記事を書くことに決めているのでまだまだ未熟者です。

この記事を読んでくださっているあなたと共に成長していけたらなぁなんて思っています。

今日はこんなところで終わっておきます。

また気が向いたら更新しますね。

ではまた。

たろちゃん。

1 個のコメント

  • 若い頃は怒りを露わにすることで相手を威嚇する、と言う行動は確かに頻繁にあった気がするな。
    年齢を重ね、ビジネスマンのゴールが見え始めた今、怒りを覚えるような事に遭遇したら、どうやったら相手が自分の非を認め反省してくれるか?と言うことを瞬時に考えて行動してる気がする。これはこれで、ずるい大人なのかも知れないけどね。

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